Ayumi Hamasaki
日本の歌姫に留まらず、アジアの歌姫となった生きる伝説である浜崎あゆみさん。
他を凌駕する圧倒的偉業を残し、頂点に上り詰めたAyuの歴史を紹介。
Asiaが世界に誇る伝説の歌姫浜崎あゆみ
・1998年4月8日、『poker face』で歌手としてデビューを果たす。
avexの社長兼プロデューサーである松浦社長から歌詞を書く事を勧められ、内なる不安や孤独について歌詞を書き、その数々が人々から共感を呼び、1999年、1作目のオリジナルアルバム『A Song for ××』が大ヒット。
表題曲である『A Song for ××』は、人々に多大な影響を与え、社会現象を起こす。
・2000年、初めてCREA名義で作曲した『M』が大ヒットし、名曲として愛される楽曲となる。
・2001年、『Dearest』で日本の音楽賞で最も権威あるレコード大賞において大賞を受賞。更に有線大賞も受賞。
・2002年、年間シングルランキングで年内で唯一100万枚以上を売り上げた『H』が第1位に。
・2002年、『Voyage』が日本レコード大賞と有線大賞をダブル受賞。
・2003年、『No way to say』でレコード大賞において大賞を史上初となる3年連続受賞。
・2006年、『BLUE BIRD』でソロアーティスト初となるシングル総売り上げ2000万枚を突破。
・2010年、『L』でシングル25作連続1位を獲得し、松田聖子さんの記録を超え、単独1位に。【Video】
・2012年、『A SUMMER BEST』でシングルとアルバムのCDの総売り上げ枚数が5000万枚を突破。
・2012年の時点でAyuは、シングルで「連続首位獲得数」(25作)、「通算首位獲得数」(37作)、「連続首位獲得年数」(12年)、「ミリオン獲得数」(5作)、「連続ミリオン獲得年数」(4年)、「総売上枚数」(2141.6万枚)、「通算TOP10獲得数」(48作)、アルバムで「1stからの首位連続年数」(13年) のソロ歌手記録を保持。
・2013年、『LOVE again』でデビューから14年10ヶ月でのアルバム首位20作目を到達し、史上最速記録を樹立。B’zの17年10ヶ月を3年短縮した。
・2019年、カラオケ市場シェアNo.1であるDAMからカラオケで一番歌われた歌手がAyuである事が発表される。
・2022年、『Remember you』で女性アーティスト「アルバム通算TOP10入り獲得作品数」が歴代単独1位となる。
・2025年、アジアの歌姫として2025微博文化交流ナイトにて『ベストアーティスト賞』を受賞。
受賞内容:「今後破られることのないであろう数々の記録とともに平成の歌姫という伝説を築き上げた」、「アジアの歌姫であり文化の垣根を超えた音楽の象徴である」
Ayuは、他を凌駕する売り上げや数々の記録を打ち立て、歌姫として頂点に君臨。
日本に留まらず、Asia各国でも圧倒的な支持を集め、Asiaの歌姫として地位を確立。
世界中で1位を獲得する楽曲を多く手掛けるRedOneや世界のDJRankingにおいて5度も1位に輝いたArmin van Buurenなど世界的な面々からもオファーが絶えず、愛される、正にAsiaが世界に誇る歌姫に成長。
作曲を手掛ける実力
作詞のみならず作曲もこなし、音楽賞を総なめに。世界中の音楽誌から大絶賛されて来た作曲家CREA (浜崎あゆみ)の作品集をご紹介。
★YouTubeの公式アカウントとリンクを繋げてあるので、楽曲をクリックすると音源を聴く事が出来ます。
ファッションリーダーとしても頂点に君臨
歌姫としてのみならず、ファンションリーダーとしても頂点に君臨。
2位と圧倒的大差をつけ断トツの1位を獲得するのが当たり前。
ナレーションで「やっぱりAyu」と言われる程、Ayuが1位を獲得するのは当たり前になって来たのである。
【恋人にしたいアーティストランキング】
Ayuは、女性のみのらず、男性が投票した恋人にしたい人物のランキングでも10年間もの間、断トツの第一位を保持。通常では数か月で変動する浮き沈みの激しいランキングで、Ayuの様に10年以上もの長期間1位を保持して来た芸能人は他には居ないのである。
【ジーンズ】
Ayuは、Liveのアンコールでは必ずジーンズを着用していました。更に授賞式や雑誌ではジーンズを自らアレンジし、ローライズジーンズに仕上げて着用。Ayuはジーンズを着用する頻度がかなり多かった為、Ayuがジーンズに合わせ着用したロックTシャツやランニングシャツ、テンガロンハット、更にジーンズに付けられるチェーンなども流行。中でも大ヒット曲『evolution』のMVでも着用したファーチャームは、2010年にも再ブレイクするなどジーンズファッションから派生した小物も含め、ジーンズファンションを促進させて来た正に功労者。
女性として初となるベストジーニスト賞で殿堂入りを果たす。【Video】
【豆知識】
Ayuは、海外のバンドが大好きな為、撮影でアメリカへ来日するとヴィンテージショップへ来店し、日本国内未発売の貴重なロックTシャツを沢山購入して来ました。因みに、『Dearest』のジャケット写真で着用しているアクセサリーは、行き付けのショップで購入した物。その他には、家具を一度に大量購入し、倉庫で保管するなどヴィンテージ品が大好きなAyu。
【ネイル】
Ayuが流行させるまでは、マニキュアが支流でしたが、Ayuは既に専属ネイリストまで雇い常に爪先まで美しくさせていました。Ayuのアイディアで様々なネイルの技術が進歩。自分でする事からお店などで誰かにして貰う事に変わり、現在では爪先まで美しくさせる事が常識となり、海外セレブもAyu御用達のネイルサロンに足を運び、全国のみならず、世界中のネイルを進歩させた第一人者と言われている。中でも2002年の紅白歌合戦やネイルクイーンの授賞式では本物のダイヤモンドをネイルにあしらいネイル史上最高額と言われる伝説のネイルを披露。
【知識】
Ayuは、2000年、2001年、2002年と3年連続でネイルクイーンを受賞し、殿堂入り。ネイルクイーンは一般と共にプロのネイリスト達の投票で決定されている。
【サングラス】
雑誌やレコード大賞を受賞した『Dearest』のMVでサングラスを着用。瞬く間に今までサングラスを着用しなかった年齢層にまでサングラスが浸透。輸入量が急増し、日本最高記録を達成。現在では定番化し、日本製のサングラスも増え、老若男女問わず使用するアイテムとなりました。
注目ポイント
Ayuが流行させるまで、サングラスは余りアジア人の間では抵抗があり、着用する人が余り居ませんでした。しかし、Ayuの効果で人々の抵抗を感じていた意識が変わり一般的なアイテムにまで成長。
知識
実は、Ayuがサングラスを多く着用する様になったのには大きな理由があり、余りにも多忙で身体に様々な深刻な症状が出る様になったAyuは、浮腫の症状にかなり苦しんで来ました。仕事を延期させる事は出来ない為、浮腫の症状を隠す目的でサングラスを着用する事が増えました。隠す目的が社会現象となり定番品になるのはAyuの凄さの一つ。
【ヒョウ柄・迷彩・ゼブラ】柄物
Ayuが着用するまで、若者の間でヒョウ柄は抵抗のある柄でしたが、Ayuが着用すると瞬く間に大流行。有名ブランドもヒョウ柄を取り入れる定番の柄に。Ayuは社会の認識まで変える程の前例のない現象を起こして来ました。
concert tour 2000 A 第2幕で『Far away』の際に着用したゼブラ柄、2001年には『NEVER EVER』で迷彩柄を着用し、ヒョウ柄のみならず、柄物が定番に。
【ラインストーン・デコレーション】
Ayuが私物をデコレーションし始めた当初、現代の様なデコニストは余りおらず、Ayuはネイリストの方などに小物をデコレーションして貰っていました。Ayuが専属にしている職人達は業界でトップの腕前を持つ為、Ayuの私物に世の中が大注目。気軽に家庭で作れるデコレーションなど庶民も気軽に楽しめるまでに発展。デコレーションの職人も全国に急増し、海外のセレブも私物をデコる様に。Ayuの影響力は国を越え世界中に及ぶ。
【コサージュ】
Ayuが髪や衣装に身に着ける事でコサージュが大流行。成人式や結婚式など髪に花をあしらったアレンジも急増。Ayuが流行させた事でコサージュの枠を超え様々な形となって世の中で広まった。
【美白】
Ayuがデビューした当時は、日焼けが流行していました。しかし、Ayuの登場と共にAyuの美肌に注目が集まり、「美白」という言葉が多用される様になりました。日焼けに対する知識が国民に広まり、更に美容の意識の革命を起こした事で、2000年代から資生堂で基底膜の研究が始まりました。美白の流行を作った事で、美容が健康志向に変わり、焼いて黒くして自分を変えるのではなく、自分の肌質を維持する健康志向に変わりました。Ayuが生み出す流行は、社会を変える程の規模の為、売上だけでなく常識化し、基礎を作る事により、研究が進み、社会を進化させる発端を作って来ているのです。Ayuは、現代の美容の基礎を作ったのです。
【豆知識】
Ayuは、自身の美白がコンプレックスで、褐色の肌に憧れを抱いていました。
ファッションリーダーとしても頂点に上り詰めたAyuの偉大な歴史を紹介。
・【美白】Ayuの美肌に注目が集まり、Ayuの肌になりたい人々が急増。
・2000年、【ヒョウ柄】『Duty』でヒョウ柄、赤リップが大流行。以後、ヒョウ柄はAyuを尊重する柄となり、若者の定番の柄となる。
更に、雑誌や収録でチェック柄を着用した事で、ヒョウ柄、赤リップ、チェック柄の組み合わせも大流行。
concert tour 2000 A 第2幕で『Far away』の際に着用したゼブラ柄、2001年には『NEVER EVER』で迷彩柄を着用し、ヒョウ柄のみならず、柄物が若者で定番に。
・【ジーンズ】Liveのアンコールや雑誌、TVなどで着用する事で大流行。その後定番品となる。
・【コサージュ】Ayuが胸元や髪に付ける事で大流行。
・【チューリップハット(帽子)】三部作のMVで着用し大流行。
・【ネイル】Ayuが豪華なネイルをする事で若い女性達の間で大流行。その後、定番化。
・2001年、【ファーチャーム】『evotion』でファーチャームが大流行。
・2001年、【迷彩柄】『NEVER EVER』で迷彩柄が大流行。
・2001年、【サングラス】雑誌や『Dearest』のMVで着用した事でサングラスが大流行。
・【テンガロンハット】が『Dearest』のMVの影響で大流行。
・2002年、ネイルクイーンの殿堂入りを果たす。(2000年、2001年、2002年受賞)
・2002年、雑誌『Free & Easy 浜崎共和国』が発行、雑誌では異例の100万部を突破し、大反響を巻き起こす。
・【デコレーション】AyuがPCや携帯などをデコる事で、若い女性の間で大流行。定番化し、全国にデコショップが急増した。
・2005年、女性として初となるベストジーニスト賞の殿堂入りを果たす。(2000年、2001年、2003年、2004年、2005年受賞)【Video】
・2010年、Ayuが表紙を飾った『Sweet』が女性ファッション誌史上最高の115万部の発行部数を記録。
・2012年、Ayu考案のハートネイルが大流行。ネイルブックも発売される。
日本人として異例の『VOGUE』『TIMES』『WE MEN』『Harper's BAZAAR』『ELLE』などの海外の雑誌の表紙に多く起用。
『Wacoal』『Aquascutum』『LA PERLA』など高級ブランドの広告に起用され美貌も国内外から高く評価されている。
モデル達がTVや雑誌でのAyuの服装を再現し、Ayuになる為の秘策が紹介され、前例のない規模で社会を動かして来た事が解ります。
Ayuの載った雑誌は即完売。増産は当たり前で売上記録を次々と更新。2010年10月号では女性ファッション誌史上最高の売り上げ部数を記録。出版社も売上記録を掛けた重要な雑誌の表紙にAyuを起用するなどファッション界においても一番の影響力を持つ事が解ります。
『A BEST』発売時、雑誌40誌の表紙を飾る事を自ら掲げ実現した事でも大きな話題となりました。
雑誌に載る事だけでも凄い事ですが、Ayuの場合は、雑誌に載る事は表紙を飾る事と同じで、様々な雑誌でも表紙になった数が歴代で1位となって来ています。
Ayuは、日本だけでなくアジアで唯一「裕福な女性歌手」のランキングに入っています。
全世界の女性歌手の中で第6位で純資産額は何と400億円。
世界中で活動している歌手の中に、国内を中心に活動しているAyuがランクインしている事で、Ayuの実績の高さが解ります。
Top 10 Richest Female Pop Stars
1. Madonna
2. Barbra Streisand
3. Celine Dion
4. Britney Spears
5. Cher
6. Ayumi Hamasaki (浜崎あゆみ)
7. Beyoncé
8. Tina Turner
9. Mariah Carey
10. Janet Jackson
日本を越えアジア最大の歌姫へ
タイ政府主催『A Star to Kingoe of Thailand』(下記画像)
バンコク日本時間午後22:30分、ルビー大使として3カラット250万円相当のルビーのネックレスを贈られたAyu。
更に、同日、午後19:00には、日本の芸能人として初めてウボンラタナ第一王女と対面。
長年、麻薬撲滅運動に貢献しているAyuは、義援金を贈りました。
Ayuは、親善大使として大役を果たしたのです。
そして、同年、アジア最大の影響力を持つ日本の歌姫としてワールドミュージックアワードを受賞。
歌姫になる前の美少女時代
歌姫になる前の幼少期から女優時代をご紹介。
生年月日:1978年10月2日
星座:天秤座
血液型:A型
本名:濱崎 歩 (はまさき あゆみ)
名前は、Ayuの育ての親であるおばあちゃんが命名。
出身地:福岡県福岡市早良地区
保育園:すみれ保育園
小学校:飯倉小学校
中学校:原中学校
習い事:クラシックバレエ (梅野バレエ教室)、ピアノ、書道、新体操
嫌いな人:挨拶をしない人、嘘をつく人
幼い頃から器用でピアノがとても上手だったAyu。
更に当時から人の悪口を一切口にしない子で、周囲を関心させていました。
美少女で更にファッションセンス抜群。
上級生からも注目される存在で既に当時からファッションリーダーだったAyu。
母親とおばあちゃんと暮らして居たAyuは、モデルにスカウトされた事をきっかけに、小学生ながら一家の大黒柱になる事を決意。
以後、Ayuは、まだ幼いにも関わらず、モデルや女優業をこなし、おばあちゃんと母親を養いました。
歌手デビューの為のレコーディングの際、育ての親であるおばあちゃんが入院。
Ayuは、病室に泊まり込み、賢明に介護をしていました。
しかし、レコーディングの為、仕事に向かうと大好きなおばあちゃんの訃報がAyuの耳に届きました。
もう、受け取りてのいない病室にAyuはFAXでメッセージを送りました。
Ayuは、デビューと同時に名付け親で育ての親であるおばあちゃんを亡くしたのです。
そして、瞬く間に歌姫として頂点に上り詰めるのです。
病気や症状について
Ayuは、デビューして間も無く事故や病気を患い、歌手として圧倒的に不利な状況下の中、頂点に上り詰め歌姫となりました。
そんなAyuを少しでも理解出来る様、表にして集約させました。
【TeamAyu】BLOG
【突発性内耳障害】
2008-01-04 04:55(JST)『追伸。』
2008-01-05 01:13(JST)『えっと。。。』
【膝蓋骨】
2017-05-19 23:52(JST)『みんなへ(^_-)-☆』
【浮腫】
2018-04-01 15:15(JST) 『昨日は』
社会を変えた功績 ~LIVE~
浜崎あゆみとして初となる全国TOUR『ayumi hamasaki concert tour 2000 A』は、日本のエンターテイメント業界を変える革命的なLiveとなりました。
前例の無い規模の豪勢なステージは、舞台監督達にとっても経験した事の無い機構を用いて設計され、浜崎あゆみにしか出来ない水準のLiveが造られました。
2005年に開催された『ayumi hamasaki ARENA TOUR 2005 ~MY STORY~』からは、Ayu自身が納得出来る水準でLiveが造れる環境にまで進化しました。
Ayuは、作詞や作曲の音楽活動で身に着けた音楽家としての技術の他に、独学で建築の勉強も多忙な状況下で行って来ました。
Ayuは、歌姫として成功を収める中、今まで費用を抑えて造られていたエンターテイメント、Live業界を変え、後任アーティスト達が豪華なステージを披露出来る環境を確立しました。
オーディションの体制などもAyuのやり方が受け継がれています。
速着替えや移動の仕方など、他社も真似する状況でした。
Ayuが業界を変える事が出来たのは、Ayuの他ならない監督達の琴線に触れた人柄と言えるでしょう。
アニメ界の金字塔スタジオジブリ作品の振付も担当した濱田美和子さん通称PECOさんがインタビューでAyuについて「この子の為だったら、なんだって出来る」と語られた事があります。
Ayuは、歌手としてデビューし始めた当時、自分の為に人々が動き会社が動く様子を目の当たりにし、涙した事がありました。
歌手を志していた訳ではないAyuは、自分が日本で一番の売上を誇る企業の筆頭頭として売り込まれている現状を当たり前には思っていませんでした。
Ayuの謙虚な姿勢、更に体調不良や負傷者を見抜く状況判断能力、周りを取りまとめる適格な支持、そして、自らも建築の知識を身に着ける勤勉な姿勢が、周りの監督達の支持を集めAyuは業界を変える事が出来たのです。
奉仕・福祉活動
Ayuは、幼少期から福祉に興味を持っていました。もし、芸能界に入っていなかったら、福祉の仕事をしていたからもしれないそんなAyuの活動の軌跡を御紹介。
Ayu本人は、奉仕・福祉活動を行っている事に口を閉ざしている部分もあります。
東日本大震災を受け、自衛隊への支援を行い激励したAyu。
熊本地震を受け、自ら被災地へ支援物資を配給。食料と共に被災地へ出向いたメンバーと共に手書きのメッセージが入った御盆を手渡しでプレゼント。更に、子供達や被災者に体育館で交流をし、日々の不安を和らげる一幕もあった。
追悼
Ayuを支えた仲間達を御紹介。
2020年10月4日永眠【小林信吾】
レコード大賞の受賞経験を持ち、浜崎あゆみさんのLIVEの音楽監督を初期から勤め、大舞台で共演されて来た伝説の音楽家。
【編曲】:『LOVE ~Destiny~』『A Song for ×× 030213 Session #2』『JEWEL』『untitled ~for her~』『Sweet Season』
・2023-03-21(JST)『バンドリハ』TA BLOG